犀星ブログ

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2015年 05月 02日

京都ふるどうぐ市を終えて

とても実のある経験となりました。
実行委員、スタッフ様方へのサポートへの感謝は尽きません。ありがとうございました。
ご来場の皆様、品に目を留めてくださった方々、健やかな陽気にも感謝雨霰です。

同業の先輩方やご来場のみなさまと接しながらの2日間、骨董が今までとは違う楽しまれかたをしはじめているのだと思いました。

先日発売された「BRUTUS」にて紹介されていたコレクターさんのエピソードに、あこがれてやっと手にしたものを白州正子さんに検分していただいたところ
「これが今のあなたよ」と差し出したものを指して言われたことが書いてありました。

骨董の蒐集の前時代は「ものが我が身を映す」ことだったのかもしれません。
多くを集め、手に入らないものを求めて、特別な何かに呼応していく趣味だったわけで。
しかし、件の会のお客樣方はもっと柔軟で「我が身を映す」ものを探しているわけではなく、骨董品も100円均一のものも同じ目線で「気に入り」の何か(店主のしつらえや正当派の骨董も)を見つけるためのお出かけだったのかなと感じました。


私のなかでも、骨董がカジュアルになる事にはなんの抵抗も、ありません。
むしろ特別に鍛えた審美眼を持たなければ触れられないものである事が、骨董のあり方を締め上げているようにも思います。
強要してはいけないな、とは思いましたが、骨董を前にした時にはお行儀が必要です。
それは「見せてください」「触ってもいいですか」といった一声からはじまり、持ちかたやそれがどんなものなのかと言う質問の仕方など色々あります。

なぜ、そんなことが必要なのか。と思われるかもしれませんが、
古いものは同じものが少ない、または無い事も多く、店主側は手間をかけ、お金をかけ、毎日を捧げて、「うちで出すもの」を揃えているわけです。
ひとえにそれは、「これが人の手にふれられて、目につく」ことが、その人の周辺を豊かにすると信じているからかとおもいます。


「ありがとうございます」「大事にして下さいね」と言って、手渡す時、そんな事を思いました。


骨董が投機や蓄財の手段であった頃に、そういったふれあい方が崩壊しましたし、骨董屋もあくどいやり方をしすぎました。しかし、物ものに罪はないし、そんなやり方を抜け出す骨董屋も多く居た、居るのだとお知らせしたいと思います。
そしてそんなやり方から抜け出した異端の店主たちが、いま愛されて、世代を交代しつつある時なのでしょう。
淘汰は、自然と起こるものです。


すこし角度を変えた話をします。
友達の陶芸家の作品を買って、自宅でつかっていました。
後日「買ったよ〜」といいながら、作家本人にみせた所。作家はこういいました。
「もう、かっちんの家のかおしてるな〜」
ものの顔つきが変わるのだと、教わった瞬間でした。
写真をとるだけでは、ここまでの骨董的体験をしていただけないので、少し残念です

ご購入の方々のお家で、飾られて使われて、変化してゆく「ものの深み」まで添えて、商いにして行きたいなと思い直した次第です。



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今戸鉄砲狐 個人蔵
ご購入ありがとうございました。

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# by saisei-kaji | 2015-05-02 13:10 | その他
2015年 04月 08日

痺れ



映画・アート・音楽・文学といった分野だけでなく、その人が輝く場所にしかるべき人物が居る事や、
「よすが」としての存在をそう呼ぶ白昼夢があることは、人への救いとして足りうるとうなずけます。

苦しみが何か、別の美しいと感じさせる痺れに変換されること。






 「通常」が消え去る、確固としたごく個人的な稜線をまざまざと見る事。
感覚的な手綱すら預けてしまいたくなる存在を探すことがエキサイティングであるとしばらく忘れていました。

触れる器物のなかに、なぜか、ある種そういった特別「痺れ」に会ったような気がするときがあります。

人によっては「波長」と言ったりするのかもしれません。


無数のがっかりが重なり、そんな痺れを忘れていました。
でも可能性や期待のために、忍耐を用いて、「来るべき痺れ」を待つのも望むところであります。
虚しさに見舞われたときは、そんな「痺れ」があることを期待して明日が終わるのを待ちます。。






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# by saisei-kaji | 2015-04-08 01:02 | その他
2015年 03月 23日

tragicomedy




エストラゴン (自分の状況の恐ろしさに戻されて)眠ってた。(非難して)どうして眠らせといてくれないんだ、いつも!
ウラジーミル 寂しくなったんだ
エストラゴン 夢を見たよ。
ウラジーミル よしてくれ、夢の話は!
エストラゴン その夢というのが・・・
ウラジーミル よしてくれと言ってるじゃないか!
エストラゴン (この宇宙を指して)この夢だけでじゅうぶんだって言うのか?(沈黙)ディディ、おまえも少しひどいなあ、おれが自分の見た内緒のいやな夢を、おまえに打ち明けないで、誰に話せるんだ?


不条理劇の代名詞とも言われる「ゴドーを待ちながら」
劇中、「ゴドー」はついぞ現れず、エストラゴンとウラジーミル、ポッツォとラッキー、ゴドーは来ないと伝える少年と、登場人物も少なく、突然の長台詞や沈黙など、テンポもなにもありません。
このベケットの登場しない待ち人「ゴドー」は「god」の比喩ともいわれ、「来ない」ことは神の消尽のことなどと批評家により説明されており、また、ドゥルーズにより、ベケットの「モロイ」などをとり、その順列可能性の説明として「消尽したものは可能なものすべてをつくしてしまう」と書かれています。

また「来ない」ことの消失点としての、喪失感・孤独・たわいもない時間の穴埋めなどが登場人物の設定や動作により表現されているようにおもえるのですが、松岡正剛による千夜千冊「ゴドーを待ちながら」の中では、不条理劇のなかで、何もない事(起こらない事)で観劇する者の感受性を駆使した「想像力による完成」を導く、不合理・不条理・虚無感であると語られています(いるようにおもいます)






青白い夢をみました。


その睡眠中にみる夢現の不可思議な日常は、不条理で不合理であればあるほど自分と言うものの要素を浮き彫りにさせるようにおもいます。

自分が日々、何にこだわり、何を育み、何を楽しみ、何を恐怖するのか。



ある喪失が起こる時とき、また夢の中で、説明のつかない内的な渦が映像化されている、とかんがえると、その不合理なストーリーは眠りという制約のなかでのみ、躍動する想像力の発露なのかもしれません。
そして、眠りが担保する「忘却」という機能は、心をすくいとる自己免疫であり、その自己免疫の編み目から零れ落ちるものと零れ落ちなかったものを、起床によりまた反芻します。

起床と眠りの反復、二つの曖昧な覚醒が重なりあいます。

夜、眠れないとき、朝、起きれないとき。
その心地のなかでは、自分の身体の在処さえぼんやりと曖昧で、おだやかな浮遊感が、さっきまで見ていた不条理な虚空を「かつては冴え冴えとした世界」だったと思わせます。

消失していく、ぼんやりとした身体感覚と、冴え冴えとした不条理が薄れていくことが、惜しいと思うとき、覚醒を遠ざけたい時間帯。
不条理の中で「神が来ない」事を待つような「あわい」。

 しかし、やがて覚め、冴え冴えとした虚空が「夢であった」と逆転するときまで、一日が始まらないと感じ至るのです



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エストラゴン (驚きと恐れで度を失う。わけのわからぬ言葉。だが、やがて)どうして眠らせといてくれないんだ、いつも?
ウラジーミル ひとりっきりになった気がしてな。
エストラゴン 夢では幸福だったのに。
ウラジーミル いい暇つぶしだったな。
エストラゴン その夢は……
ウラジーミル 言わんでくれ! ー抜粋ー









引用: 白水社 ベスト・オブ・ベケット1 
サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」安堂信也 高橋康也 訳






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# by saisei-kaji | 2015-03-23 08:37 | 私感
2015年 03月 21日

出店のご案内



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みなさまへ


三寒四温とは申しますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

このたびは、誠に僭越ながら来る4月に執り行われます、
 《第2回京都ふるどうぐ市》をご案内いたします。

 昨年から引き続き、本年の開催にも参加させていただく運びとなりました。
まだまだ、店舗ももたずのえっちらおっちらやっている私ですが、このような機会にめぐまれまして、昨年よりグレードアップした仕事っぷりを見ていただきたい気持ちと、この会にお集りの古物商・骨董店の選び抜かれた品々をご高覧いただく機会が、皆様にとって新鮮な体験になるかと思いお知らせ致します。
 

骨董の新潮流をご覧下さい。
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web 京都ふるどうぐ市

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# by saisei-kaji | 2015-03-21 17:15 | 骨董
2015年 02月 19日

ないものねだり

ジャコメッティ:Alberto Giacometti / 1901-1966

「ぼくは自分が曖昧で少しぼやけていて、まちがった場所に置かれている人間だという気がしている」


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ジャコメッティの彫刻は実体よりも薄く、人と人との距離感について作られたものの様に思えます。



物であふれて、つながりも複雑になった人と人の間で、自分自身をきちんと所有している事の強さは孤独と連帯感を凌駕する事のように思えますが、果たして。

 断舎利というものが、昨今はやりましたが、あれは形あるものを所有する事を放棄する行為でもっと内省的な個の働きを統率して、自分自身への所有を高める行いのように思えます

捨てる事は「以前持っていた」ことであるだけでなく、「捨てることができた」という達成感のための体験に他なりません。



 好きなものを所有する事は、まるで自己の輪郭のための行為に思えます。

「所有」することの窓口となっている小売の現場では、まさにその輪郭のためのコミュニケーションを行います。

 何を買ったところで何が変わるわけでもないのですが、一抹ででも自分の個としての輪郭のために、気に入ったもので周りを埋めるのではないでしょうか。

 でもそれは、あくまで外面を強化するための作業で、まだ見ぬ自分の正体に迫る働きとしては弱い様に思います。


確固たる個を主張できる事をよすがとするより、暗中模索で不格好でも「未開」の内部を内省する事を求められる時代になっているような気がしています。

 自分というものを固化する作業には、「知っている事」より、「解っている事」を保有しながら、ある種の自意識への理解をゆっくりと深めて行く事が欠かせない事に思えます。形あるもののみならず、知識や考察といったものも、集めているものに当てはまるかと思ます。








古物には、手に取る際に押さえておきたい情報がいくらかあります。

産地、時代、制作者、製法、なぜ古物においてその部分を知ることが必要なのか、ふと考えます。おそらくそれは、贋物や贋作からの防御であることのみならず、今はもう見る事のできない時間に思いを馳せるヒントのような働きをする事があり、見る事、手に取る事のできないものへの信憑性を瑞瑞しいままで補完する作業のようにも思えます。

それは、まだ見ぬ時間を他者に提供するためのものであり、そのもののもつ魅力を萌芽させることですが、私にとってはそれは第三者のためのものです。

分けは解らないけど、気に入って、買ってみた。そのあとに、じっくりと気に入った好きなものを観察して、好きなように好きなものを感受性に浸透させる事で、自意識でもわからない感覚的なものを取り込む術になり得ると思えます。




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甲冑すら「本体」として。人には触れさせない内部に言い訳をしながら、本当は傷付いていたり、煮えていたりする、言葉以前の、壊れやすい、しかし既に固まっている、個の真相や、生み出される孤独感、それへの癒しが「所有」と言う中に埋め込まれている気がするのです。

孤独と連帯感の間にある、確からしさのための弁舌では、人の心は動かせないとも思う中で、いかなる伝えかたが「確からしさ」から「確かさ」へ、持つべきものを変態できるのか探っています。


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Giorgio Morandi Still Life


正体自体が解明されていないものに、確からしさの甲冑をつけて自分としているのなら、ならば尚、「解らない自分」についての言い訳が欲しくなるものでしょう。




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# by saisei-kaji | 2015-02-19 19:33 | 私感