犀星ブログ

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2015年 04月 08日

痺れ



映画・アート・音楽・文学といった分野だけでなく、その人が輝く場所にしかるべき人物が居る事や、
「よすが」としての存在をそう呼ぶ白昼夢があることは、人への救いとして足りうるとうなずけます。

苦しみが何か、別の美しいと感じさせる痺れに変換されること。






 「通常」が消え去る、確固としたごく個人的な稜線をまざまざと見る事。
感覚的な手綱すら預けてしまいたくなる存在を探すことがエキサイティングであるとしばらく忘れていました。

触れる器物のなかに、なぜか、ある種そういった特別「痺れ」に会ったような気がするときがあります。

人によっては「波長」と言ったりするのかもしれません。


無数のがっかりが重なり、そんな痺れを忘れていました。
でも可能性や期待のために、忍耐を用いて、「来るべき痺れ」を待つのも望むところであります。
虚しさに見舞われたときは、そんな「痺れ」があることを期待して明日が終わるのを待ちます。。






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# by saisei-kaji | 2015-04-08 01:02 | その他 | Comments(0)
2015年 03月 23日

tragicomedy




エストラゴン (自分の状況の恐ろしさに戻されて)眠ってた。(非難して)どうして眠らせといてくれないんだ、いつも!
ウラジーミル 寂しくなったんだ
エストラゴン 夢を見たよ。
ウラジーミル よしてくれ、夢の話は!
エストラゴン その夢というのが・・・
ウラジーミル よしてくれと言ってるじゃないか!
エストラゴン (この宇宙を指して)この夢だけでじゅうぶんだって言うのか?(沈黙)ディディ、おまえも少しひどいなあ、おれが自分の見た内緒のいやな夢を、おまえに打ち明けないで、誰に話せるんだ?


不条理劇の代名詞とも言われる「ゴドーを待ちながら」
劇中、「ゴドー」はついぞ現れず、エストラゴンとウラジーミル、ポッツォとラッキー、ゴドーは来ないと伝える少年と、登場人物も少なく、突然の長台詞や沈黙など、テンポもなにもありません。
このベケットの登場しない待ち人「ゴドー」は「god」の比喩ともいわれ、「来ない」ことは神の消尽のことなどと批評家により説明されており、また、ドゥルーズにより、ベケットの「モロイ」などをとり、その順列可能性の説明として「消尽したものは可能なものすべてをつくしてしまう」と書かれています。

また「来ない」ことの消失点としての、喪失感・孤独・たわいもない時間の穴埋めなどが登場人物の設定や動作により表現されているようにおもえるのですが、松岡正剛による千夜千冊「ゴドーを待ちながら」の中では、不条理劇のなかで、何もない事(起こらない事)で観劇する者の感受性を駆使した「想像力による完成」を導く、不合理・不条理・虚無感であると語られています(いるようにおもいます)






青白い夢をみました。


その睡眠中にみる夢現の不可思議な日常は、不条理で不合理であればあるほど自分と言うものの要素を浮き彫りにさせるようにおもいます。

自分が日々、何にこだわり、何を育み、何を楽しみ、何を恐怖するのか。



ある喪失が起こる時とき、また夢の中で、説明のつかない内的な渦が映像化されている、とかんがえると、その不合理なストーリーは眠りという制約のなかでのみ、躍動する想像力の発露なのかもしれません。
そして、眠りが担保する「忘却」という機能は、心をすくいとる自己免疫であり、その自己免疫の編み目から零れ落ちるものと零れ落ちなかったものを、起床によりまた反芻します。

起床と眠りの反復、二つの曖昧な覚醒が重なりあいます。

夜、眠れないとき、朝、起きれないとき。
その心地のなかでは、自分の身体の在処さえぼんやりと曖昧で、おだやかな浮遊感が、さっきまで見ていた不条理な虚空を「かつては冴え冴えとした世界」だったと思わせます。

消失していく、ぼんやりとした身体感覚と、冴え冴えとした不条理が薄れていくことが、惜しいと思うとき、覚醒を遠ざけたい時間帯。
不条理の中で「神が来ない」事を待つような「あわい」。

 しかし、やがて覚め、冴え冴えとした虚空が「夢であった」と逆転するときまで、一日が始まらないと感じ至るのです



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エストラゴン (驚きと恐れで度を失う。わけのわからぬ言葉。だが、やがて)どうして眠らせといてくれないんだ、いつも?
ウラジーミル ひとりっきりになった気がしてな。
エストラゴン 夢では幸福だったのに。
ウラジーミル いい暇つぶしだったな。
エストラゴン その夢は……
ウラジーミル 言わんでくれ! ー抜粋ー









引用: 白水社 ベスト・オブ・ベケット1 
サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」安堂信也 高橋康也 訳






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# by saisei-kaji | 2015-03-23 08:37 | 私感 | Comments(0)
2015年 03月 21日

出店のご案内



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みなさまへ


三寒四温とは申しますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

このたびは、誠に僭越ながら来る4月に執り行われます、
 《第2回京都ふるどうぐ市》をご案内いたします。

 昨年から引き続き、本年の開催にも参加させていただく運びとなりました。
まだまだ、店舗ももたずのえっちらおっちらやっている私ですが、このような機会にめぐまれまして、昨年よりグレードアップした仕事っぷりを見ていただきたい気持ちと、この会にお集りの古物商・骨董店の選び抜かれた品々をご高覧いただく機会が、皆様にとって新鮮な体験になるかと思いお知らせ致します。
 

骨董の新潮流をご覧下さい。
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web 京都ふるどうぐ市

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# by saisei-kaji | 2015-03-21 17:15 | 骨董 | Comments(0)
2015年 02月 19日

ないものねだり

ジャコメッティ:Alberto Giacometti / 1901-1966

「ぼくは自分が曖昧で少しぼやけていて、まちがった場所に置かれている人間だという気がしている」


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ジャコメッティの彫刻は実体よりも薄く、人と人との距離感について作られたものの様に思えます。



物であふれて、つながりも複雑になった人と人の間で、自分自身をきちんと所有している事の強さは孤独と連帯感を凌駕する事のように思えますが、果たして。

 断舎利というものが、昨今はやりましたが、あれは形あるものを所有する事を放棄する行為でもっと内省的な個の働きを統率して、自分自身への所有を高める行いのように思えます

捨てる事は「以前持っていた」ことであるだけでなく、「捨てることができた」という達成感のための体験に他なりません。



 好きなものを所有する事は、まるで自己の輪郭のための行為に思えます。

「所有」することの窓口となっている小売の現場では、まさにその輪郭のためのコミュニケーションを行います。

 何を買ったところで何が変わるわけでもないのですが、一抹ででも自分の個としての輪郭のために、気に入ったもので周りを埋めるのではないでしょうか。

 でもそれは、あくまで外面を強化するための作業で、まだ見ぬ自分の正体に迫る働きとしては弱い様に思います。


確固たる個を主張できる事をよすがとするより、暗中模索で不格好でも「未開」の内部を内省する事を求められる時代になっているような気がしています。

 自分というものを固化する作業には、「知っている事」より、「解っている事」を保有しながら、ある種の自意識への理解をゆっくりと深めて行く事が欠かせない事に思えます。形あるもののみならず、知識や考察といったものも、集めているものに当てはまるかと思ます。








古物には、手に取る際に押さえておきたい情報がいくらかあります。

産地、時代、制作者、製法、なぜ古物においてその部分を知ることが必要なのか、ふと考えます。おそらくそれは、贋物や贋作からの防御であることのみならず、今はもう見る事のできない時間に思いを馳せるヒントのような働きをする事があり、見る事、手に取る事のできないものへの信憑性を瑞瑞しいままで補完する作業のようにも思えます。

それは、まだ見ぬ時間を他者に提供するためのものであり、そのもののもつ魅力を萌芽させることですが、私にとってはそれは第三者のためのものです。

分けは解らないけど、気に入って、買ってみた。そのあとに、じっくりと気に入った好きなものを観察して、好きなように好きなものを感受性に浸透させる事で、自意識でもわからない感覚的なものを取り込む術になり得ると思えます。




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甲冑すら「本体」として。人には触れさせない内部に言い訳をしながら、本当は傷付いていたり、煮えていたりする、言葉以前の、壊れやすい、しかし既に固まっている、個の真相や、生み出される孤独感、それへの癒しが「所有」と言う中に埋め込まれている気がするのです。

孤独と連帯感の間にある、確からしさのための弁舌では、人の心は動かせないとも思う中で、いかなる伝えかたが「確からしさ」から「確かさ」へ、持つべきものを変態できるのか探っています。


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Giorgio Morandi Still Life


正体自体が解明されていないものに、確からしさの甲冑をつけて自分としているのなら、ならば尚、「解らない自分」についての言い訳が欲しくなるものでしょう。




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# by saisei-kaji | 2015-02-19 19:33 | 私感 | Comments(0)
2015年 01月 31日

臨場感



何かを写真で撮るときに、久しくファインダーをのぞかなくなり手元でツールを繰り「フィルムっぽく」加工する。
それはなんだか、絵画(描く)作用が強く、既に感情的・情動的な部分を多く抜き取り手作業で暴露する事に寄ってきているように思う。既にそこに違和感はないのだけれど、写真を撮ったという事でも無いような気がしてくる。
写真を加工する事と少しの違和感の間に思う事がある。

臨場感が欲しいと思う。
それは「リアリズム」では無い、もっと皮膚感覚や呼吸や、素材に触れた時の対象物から感じ取る質感や湿気や温度のようなもので。
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それは、ぬれた洗濯物と乾いた洗濯物が、同じものでありながら、違うものである差異のような
女性の髪の毛がそれぞれ違う質感と感じ取れるような。

民家から不意に香る出汁の匂いが、それとなく何を調理しているかわかる、(たとえ見ず知らずのお家であっても)「懐かしさ」のあるような。

そんな、知る術無く知ってしまった皮膚感覚と情動の間にある臨場感である。

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古いものを扱っていると、その物それぞれに前述での臨場感の豊かさを、まざまざと見る事がある。手に取る時の重みや装飾の作為のみならず、吐息や職人の集中した時間、言語以外の語りが聞こえるような気がするのです。
作り手が見ていた「見え」。その視線と手のつながりの密度の奥深さ。
それそのものが、制作現場に於いての触覚をもって造形に転換されていたのだったと疑問なく思えるのです。

現代に生きていて、砂山のような儚さであろうとも、感受性を震わせる体験を重要視したい。

「見え」が臨場感をもって肌ざわりと一体化する時が、ある種の痺れのように感じるのは、「見え」と肌ざわり(皮膚感覚)との繋がりの証左であるように思える。

あまりに稀薄になった、が、まだ在る、。点在する感度のためのレールを持っていたいと思う。

感受性が「見え」と肌ざわりをミックスして何か第3の感覚(懐かしさやある場面、または匂いやぬくもり など)を想起して一つの感性の結論に蒸発させる体験が、臨場感を埋没させないヒントとなるように思えるのである。


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Luigi Ghirri (Scandiano, 5 January 1943 – Roncocesi, 14 February 1992) was an Italian artist and photographer who gained a far-reaching reputation as a pioneer and master of contemporary photography(@wikipedia)

ギッリの写真は何を撮るでも無く、無風の風景をスナップします。
しかし、かすかに映り込む「気配」を悟すように思えるのです。
「映っていないもの」との関係性が匂いたつように感じられる写真であると思えます。
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その、映らないものを感じる事のような体験が感受性を振動させていて、前述の臨場感についての琴線が自分にも他人にもあることを教えてくれたと思えるのです。

既に花鳥風月が喪失した現代の渦中で、それぞれの場面で、なお、琴線の痺れを引き起こしたいと思う。
そしてさらに、それが設えられ、特別視を向けられる空間でなくてもよいという事と、演出された場所では一種の酩酊であると、言わずに知らせたいと思う。

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「ガラスの脆さを見る」ーメルロ・ポンティ

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# by saisei-kaji | 2015-01-31 02:23 | 私感 | Comments(0)