犀星ブログ

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2015年 08月 30日

ghost

音と響きの関係のようなものについて、ぼんやりと考えていた。

音は確かに聞こえているが、響きは音よりも幽かで存在がつかみにくい。けれど、それが無ければ、音の良さに打ち震える事はできないのです。



藤本由起夫の「26 philosophical toys」のヴァニラという短い文章の中で、

ヴァニラは、21世紀的な「薄い」オブジェの一例である。

と括る。

匂いは、目に見えなく持続性が無いと言う意味で非力だが、その存在感を感じている間、興奮と鎮静・天使と悪魔といった両極の2面性を強く感じさせると言う意味でとても物性をもつということだ。

実体から離れた物性の表現として秀逸な『「薄い」オブジェ』という命名が、物自体と感性の間が、目に見えるよりずっと克明であると記しているように思えてくるのです。

回りくどい言い換えをすると、物を見ている人の世界感がその人にそう見せている世界が存在するということで。。。




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不思議とそのとき頭の中の逡巡と、「ghost」のイメージが合致したのです。


背後霊のように、うすぼんやりとその存在の、幻しが、そのものに寄り添っている。


実質は実体と感性の2重構造であり、実体を視覚に捕えるのですがそれが『何か』を感性でつかむときに、実体より少し「薄い」ゴーストがあると仮定すると抽象空間が少し具象を帯びて、想起されやすい。



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例えば、「味」と十把一絡げにされてしまう共通認識としての質感や、「きれいね」と具体的なことばから、各々受け取る感覚があり、それは「きれいな」ものをみながら「きれい」なゴーストを捕えているのではないかと思えてくるのです。

「ゴースト」を捕える精度が高ければ高いほど、共通認識を汎用した表現を獲得しうると期待できてしまうのです。

もちろんそれは、各々個別の「ゴースト」で良いわけですが。。。


ありはしないのかもしれません。

けど、あるとすると、ものや人や、もっと見えにくい感情や感受性についての説明のしがたい在り方を、慈しめる気がするのです






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by saisei-kaji | 2015-08-30 00:40 | その他
2015年 08月 17日

落雨

山の方から雨音が聞こえる。

暑さを払うように落ちる雨粒が、しとしと。

木の匂いを吸い込んで、湿気を振りまいている。

虫も鳥も声を潜めて、夜の静かさは雨の音に取って代わられた。

月明かりも無く、朝はまだ先。

内緒話をするように雨は降る。






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湿気を出し切って、身軽になった雨雲は行く先をささやくが、はっきりとは告げず、またどこかで雨を降らせるのだろうか




わかれきてつくつくぼうし  種田山頭火





自己嫌悪を洗い流してくれるような雨をただ眺めて

そうだった、雨では流せないものを秘めるのだと自分を戒めるように言い聞かせる。


不眠の夜を数える










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by saisei-kaji | 2015-08-17 23:09 | 私感
2015年 08月 12日

欠けたもの

燃え盛ると言うよりは、ぐつぐつと煮られるような暑さ

冬は夏の暑さを、夏は冬の寒さを待ち遠しく感じてしまいます。



8月、残暑。残る暑さに憂いはあるのでしょうか。

このまざまざとした熱のなかで、秋風の到来をただ待ちながら、ないものねだりだけが寒々と。








季節の美しさをついつい忘れてしまいますが、空気を吸う度に熱気も吸い込み、暑さに奪い取られた気を冷えたビールで補給しております。

酩酊を呼び寄せて、何のよすがになるでもなく。

夏のリリシズムに咆哮するのは蝉、ヒグラシの声だけが涼しい夏です。

無いものをほしがり、あれば飲み込んでしまう。

飲み込んで無くなれば、また欲しがってしまう。

生き生きとした姿が、ただあるだけでは飽き足らないのが人なのでしょうね。


骨董を扱うと、傷のもの、割れたもの、片割れや半端ものによく出会います。

人も物もなにかしら、キズついて、今があることを何度も何度も反芻します。

死して朽ち果てるまで、夢見た「完全」には遠く、時間を減るごと身体をやつれさせ、哀惜すら養いにはならず。



しかし、跡の残る傷には、その経験のコックピットとなった自身が刻まれていて、痛々しいと愛おしいが混濁した年輪の教訓が「暮らすこと」の永さを示唆しているように思えます。

彼らは傷をもち、痛々しい姿でもその現況の生き生きたる姿を受け入れているように見え、完器よりもたくましく、けなげで誇らしげに見える事があります。


「不完全」と「未完」の間の違いを感ずるのです。

完全から何かが欠けて不完全になり、すでに「成長途上の未完さ」とは姿を違えても、老いぼれてしなびてしまう事がなく、むしろ、創られたままの顔つきを何倍にも膨らませてくれるようで見逃せず、惚れ込んでしまうことがあります。

欠けて器としては用途を制限されたなかでも、再び人の手にまみえて器として呼吸し始める「きずもの」たちを愛おしく感じます。

私もまた、認めたくないほどの不完全で歪なものだから、そんな肩入れをしてしまうのでしょうね。

この分厚くて、おもくて、欠けていて、簡素な器にお酒を垂らして

蝉の泣き声や、夕立の遠雷を盃に染み込ませるうち、酣になり。

まるで先生のように自らに降り積もった時代なりの話をしてくれるようです









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黙っていても善い相手は、飲ませ上手この上なく。

いつかの話したあの時間をまた待つように、独酌の友は、欠けています。




江戸期くらわんか碗 波佐見


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by saisei-kaji | 2015-08-12 00:40 | 骨董