犀星ブログ

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カテゴリ:その他( 8 )


2016年 05月 07日

京都ふるどうぐ市を終えて

この度も出店させて頂きました、第3回京都ふるどうぐ市。
関係者みなさま、大変お世話になりました。

ありがとうございました。なみなみならぬご尽力・ご配慮に最大の感謝と、昨年から一年ぶりに顔を合せるご出店の同業者みなさまのお仕事への謙虚な努力と姿勢に見習わなければならないものを多く感じました。

派手でなくても、目立たなくても、みんなに見てもらいたい、知ってもらいたい、楽しんでもらいたい、便利に使ってもらいたいと思うものをコツコツ集めました。



こんなに、自分に自信の無い私を励ましてくれる、同業者の方々の優しさにはいつもどうやって返そうかと・・・・

今年のふるどうぐ市に参加していて、とても思った事が一つあります。
ふるどうぐ市の「方言」のようなものができつつあるのかなと思いました。

「方言」というのは、ここではうまく通じるのだけれど、あちらでは全く通じないといった、表現の共通性のようなものだとおもうのですが、確かに骨董の世界の中で、ふるどうぐ市のなかだけで、とても良くわかるやり方があるような。そんな気がしました。
骨董の世界は、数百円のものから、数千万や億の値がつくものを商売にしておられる業者・商店・競り市がたくさんあり、お金も人も思惑も大きく動くある一業種なわけで。その世界は人や関係がつなぐ深淵な世界だと思っています。その中の一つである事を、過不足なく正当な評価をしなくてはならないと思いました。
大きい小さいでは無く、その島が創った方言がすべてにならないように、要心する事が必要なのではないかと思ってしまったのです。


骨董の世界では、ものは、すでに物ではなく、もっと神格化されたような概念的な存在でありながら、物そのものでしか価値を表現できない存在です。

雨が降るような湿潤な肌の茶碗、
地層を抜き出したような信楽、
透けるような鍋島、時代が刻まれた古木。何度も脱皮した鉄。
湿気が沁み入ったようなガラス
仏像のような微笑みのこけし

そのものに幾ら着けてお客さまの前に出す事が正しいのか、とくに取り決めもありません。
いくらである事は重要ではなくなってきます。

秦秀雄は「それを見た眼が詩人であった」
と、ものが宿した魅力か、見つけた人間によるものなのか解答しています。

私は、私が出して来たもので、あなたの詩情が呼び出せたら、とてもうれしいです。












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by saisei-kaji | 2016-05-07 17:41 | その他 | Comments(0)
2015年 11月 27日

おちこぼれ



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なんてことないことを大事にしていて、人よりおちこぼれても、何か期待をこめて世界を見ていたいと思う。

抽象が具象よりリアリティをもつ時があります。
イマジナリーで実像のないものが胸のなかに棲んでいることが、ある種の救済でありますようにといつも思います。
秘められた目に見えない現実が(誰しものなかで、)密かな支えになっているのだと思いたいです。








冒頭の絵画作品:有元利夫







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by saisei-kaji | 2015-11-27 02:50 | その他 | Comments(0)
2015年 09月 14日

ライナスの毛布


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スヌーピーのライナスは、身近な物事への素朴な疑問をもち、哲学的な思慮深さを感じさせる名言をいくつも残しています。

でも、いつも指をしゃぶり安心毛布をほほに着けています。

甘えと脱皮のちょうど中間に位置している彼は、安心と不安の両方をいつも抱えています。

白血病の友達が、髪の毛が抜けていじめられたら猛然と怒ったりするライナス。

彼の義心は大人びているのに、何かで不安を緩めていないと自分が保てないのでしょう。






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私もブランケットコンプレックスでした。

眠る時、「クークー」という名前のブランケットが無いと眠りにつけませんでした。

さあ、寝なよと言う時に、兄弟のいたずらでクークーをどこかに隠されてしまい、パニックで泣いたりしていました。

日中はさほど気にもとめないのですが、いざ眠る時「無い」と言うだけで、不安がおしよせていたたまれなくなりました。

子供の頃にはもうひどくくたびれていたクークーを、おばあちゃんと母がタオルを裏に着けて補強してくれたりしました

小学生になり、お友達が泊まりに来たら、恥ずかしかったことを覚えています。

もちろん、旅行先には持って行かないので、たいていは眠れません。

少し、緊張状態を解くのがへたくそなのかもしれません。





徐々に年長になり、不必要にはなりましたが、今でも時々取り出します、もう、取り返しがつかないほどぼろぼろになってしまっていても、今でも枕の所にあり、眠れないときは頼りにしています。

落ち着くための、私なりのよすがなのです。

いくら大人になっても、忘れられない不安や、説明の付かない安堵感が誰しもにもあるようです。

病気をしたり、誰かと離ればなれになったり。

あらゆる挫折について、わずかの救済もないと感じずにはいられない時もあり、人生は困難です。

生きている限り続く困難が終らない中で、救済のきっかけを持ち続けられるなら、羞恥心を捨ててコンプレックスをある種の受け皿にして「内緒の」なにかを確保して行くことも、生きてゆく術であると再度思い返す夜です。


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by saisei-kaji | 2015-09-14 01:31 | その他 | Comments(2)
2015年 08月 30日

ghost

音と響きの関係のようなものについて、ぼんやりと考えていた。

音は確かに聞こえているが、響きは音よりも幽かで存在がつかみにくい。けれど、それが無ければ、音の良さに打ち震える事はできないのです。



藤本由起夫の「26 philosophical toys」のヴァニラという短い文章の中で、

ヴァニラは、21世紀的な「薄い」オブジェの一例である。

と括る。

匂いは、目に見えなく持続性が無いと言う意味で非力だが、その存在感を感じている間、興奮と鎮静・天使と悪魔といった両極の2面性を強く感じさせると言う意味でとても物性をもつということだ。

実体から離れた物性の表現として秀逸な『「薄い」オブジェ』という命名が、物自体と感性の間が、目に見えるよりずっと克明であると記しているように思えてくるのです。

回りくどい言い換えをすると、物を見ている人の世界感がその人にそう見せている世界が存在するということで。。。




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不思議とそのとき頭の中の逡巡と、「ghost」のイメージが合致したのです。


背後霊のように、うすぼんやりとその存在の、幻しが、そのものに寄り添っている。


実質は実体と感性の2重構造であり、実体を視覚に捕えるのですがそれが『何か』を感性でつかむときに、実体より少し「薄い」ゴーストがあると仮定すると抽象空間が少し具象を帯びて、想起されやすい。



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例えば、「味」と十把一絡げにされてしまう共通認識としての質感や、「きれいね」と具体的なことばから、各々受け取る感覚があり、それは「きれいな」ものをみながら「きれい」なゴーストを捕えているのではないかと思えてくるのです。

「ゴースト」を捕える精度が高ければ高いほど、共通認識を汎用した表現を獲得しうると期待できてしまうのです。

もちろんそれは、各々個別の「ゴースト」で良いわけですが。。。


ありはしないのかもしれません。

けど、あるとすると、ものや人や、もっと見えにくい感情や感受性についての説明のしがたい在り方を、慈しめる気がするのです






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by saisei-kaji | 2015-08-30 00:40 | その他 | Comments(0)
2015年 06月 24日

Nessun dorma!!

7月が近づいてきました。


誰も寝てはならぬ! あなたもですよ姫君。

Ma il mio mistero e chiuso in me,
Il nome mio nessun sapra!
No, no, sulla tua bocca lo diro,
Quando la luce splendera!

Ed il mio bacio sciogliera.
Il silenzio che ti fa mio!

Dilegua, o notte!
Tramontate, stelle!
All'alba vincero!

vincero!!




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by saisei-kaji | 2015-06-24 21:26 | その他 | Comments(0)
2015年 05月 02日

京都ふるどうぐ市を終えて

とても実のある経験となりました。
実行委員、スタッフ様方へのサポートへの感謝は尽きません。ありがとうございました。
ご来場の皆様、品に目を留めてくださった方々、健やかな陽気にも感謝雨霰です。

同業の先輩方やご来場のみなさまと接しながらの2日間、骨董が今までとは違う楽しまれかたをしはじめているのだと思いました。

先日発売された「BRUTUS」にて紹介されていたコレクターさんのエピソードに、あこがれてやっと手にしたものを白州正子さんに検分していただいたところ
「これが今のあなたよ」と差し出したものを指して言われたことが書いてありました。

骨董の蒐集の前時代は「ものが我が身を映す」ことだったのかもしれません。
多くを集め、手に入らないものを求めて、特別な何かに呼応していく趣味だったわけで。
しかし、件の会のお客樣方はもっと柔軟で「我が身を映す」ものを探しているわけではなく、骨董品も100円均一のものも同じ目線で「気に入り」の何か(店主のしつらえや正当派の骨董も)を見つけるためのお出かけだったのかなと感じました。


私のなかでも、骨董がカジュアルになる事にはなんの抵抗も、ありません。
むしろ特別に鍛えた審美眼を持たなければ触れられないものである事が、骨董のあり方を締め上げているようにも思います。
強要してはいけないな、とは思いましたが、骨董を前にした時にはお行儀が必要です。
それは「見せてください」「触ってもいいですか」といった一声からはじまり、持ちかたやそれがどんなものなのかと言う質問の仕方など色々あります。

なぜ、そんなことが必要なのか。と思われるかもしれませんが、
古いものは同じものが少ない、または無い事も多く、店主側は手間をかけ、お金をかけ、毎日を捧げて、「うちで出すもの」を揃えているわけです。
ひとえにそれは、「これが人の手にふれられて、目につく」ことが、その人の周辺を豊かにすると信じているからかとおもいます。


「ありがとうございます」「大事にして下さいね」と言って、手渡す時、そんな事を思いました。


骨董が投機や蓄財の手段であった頃に、そういったふれあい方が崩壊しましたし、骨董屋もあくどいやり方をしすぎました。しかし、物ものに罪はないし、そんなやり方を抜け出す骨董屋も多く居た、居るのだとお知らせしたいと思います。
そしてそんなやり方から抜け出した異端の店主たちが、いま愛されて、世代を交代しつつある時なのでしょう。
淘汰は、自然と起こるものです。


すこし角度を変えた話をします。
友達の陶芸家の作品を買って、自宅でつかっていました。
後日「買ったよ〜」といいながら、作家本人にみせた所。作家はこういいました。
「もう、かっちんの家のかおしてるな〜」
ものの顔つきが変わるのだと、教わった瞬間でした。
写真をとるだけでは、ここまでの骨董的体験をしていただけないので、少し残念です

ご購入の方々のお家で、飾られて使われて、変化してゆく「ものの深み」まで添えて、商いにして行きたいなと思い直した次第です。



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今戸鉄砲狐 個人蔵
ご購入ありがとうございました。

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by saisei-kaji | 2015-05-02 13:10 | その他 | Comments(0)
2015年 04月 08日

痺れ



映画・アート・音楽・文学といった分野だけでなく、その人が輝く場所にしかるべき人物が居る事や、
「よすが」としての存在をそう呼ぶ白昼夢があることは、人への救いとして足りうるとうなずけます。

苦しみが何か、別の美しいと感じさせる痺れに変換されること。






 「通常」が消え去る、確固としたごく個人的な稜線をまざまざと見る事。
感覚的な手綱すら預けてしまいたくなる存在を探すことがエキサイティングであるとしばらく忘れていました。

触れる器物のなかに、なぜか、ある種そういった特別「痺れ」に会ったような気がするときがあります。

人によっては「波長」と言ったりするのかもしれません。


無数のがっかりが重なり、そんな痺れを忘れていました。
でも可能性や期待のために、忍耐を用いて、「来るべき痺れ」を待つのも望むところであります。
虚しさに見舞われたときは、そんな「痺れ」があることを期待して明日が終わるのを待ちます。。






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by saisei-kaji | 2015-04-08 01:02 | その他 | Comments(0)
2014年 08月 18日

ブログ始めました

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ブログはじめました。
骨董のことや、勉強した事や、その他を書こうと思います。


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by saisei-kaji | 2014-08-18 22:42 | その他 | Comments(0)