犀星ブログ

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2015年 01月 31日

臨場感



何かを写真で撮るときに、久しくファインダーをのぞかなくなり手元でツールを繰り「フィルムっぽく」加工する。
それはなんだか、絵画(描く)作用が強く、既に感情的・情動的な部分を多く抜き取り手作業で暴露する事に寄ってきているように思う。既にそこに違和感はないのだけれど、写真を撮ったという事でも無いような気がしてくる。
写真を加工する事と少しの違和感の間に思う事がある。

臨場感が欲しいと思う。
それは「リアリズム」では無い、もっと皮膚感覚や呼吸や、素材に触れた時の対象物から感じ取る質感や湿気や温度のようなもので。
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それは、ぬれた洗濯物と乾いた洗濯物が、同じものでありながら、違うものである差異のような
女性の髪の毛がそれぞれ違う質感と感じ取れるような。

民家から不意に香る出汁の匂いが、それとなく何を調理しているかわかる、(たとえ見ず知らずのお家であっても)「懐かしさ」のあるような。

そんな、知る術無く知ってしまった皮膚感覚と情動の間にある臨場感である。

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古いものを扱っていると、その物それぞれに前述での臨場感の豊かさを、まざまざと見る事がある。手に取る時の重みや装飾の作為のみならず、吐息や職人の集中した時間、言語以外の語りが聞こえるような気がするのです。
作り手が見ていた「見え」。その視線と手のつながりの密度の奥深さ。
それそのものが、制作現場に於いての触覚をもって造形に転換されていたのだったと疑問なく思えるのです。

現代に生きていて、砂山のような儚さであろうとも、感受性を震わせる体験を重要視したい。

「見え」が臨場感をもって肌ざわりと一体化する時が、ある種の痺れのように感じるのは、「見え」と肌ざわり(皮膚感覚)との繋がりの証左であるように思える。

あまりに稀薄になった、が、まだ在る、。点在する感度のためのレールを持っていたいと思う。

感受性が「見え」と肌ざわりをミックスして何か第3の感覚(懐かしさやある場面、または匂いやぬくもり など)を想起して一つの感性の結論に蒸発させる体験が、臨場感を埋没させないヒントとなるように思えるのである。


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Luigi Ghirri (Scandiano, 5 January 1943 – Roncocesi, 14 February 1992) was an Italian artist and photographer who gained a far-reaching reputation as a pioneer and master of contemporary photography(@wikipedia)

ギッリの写真は何を撮るでも無く、無風の風景をスナップします。
しかし、かすかに映り込む「気配」を悟すように思えるのです。
「映っていないもの」との関係性が匂いたつように感じられる写真であると思えます。
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その、映らないものを感じる事のような体験が感受性を振動させていて、前述の臨場感についての琴線が自分にも他人にもあることを教えてくれたと思えるのです。

既に花鳥風月が喪失した現代の渦中で、それぞれの場面で、なお、琴線の痺れを引き起こしたいと思う。
そしてさらに、それが設えられ、特別視を向けられる空間でなくてもよいという事と、演出された場所では一種の酩酊であると、言わずに知らせたいと思う。

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「ガラスの脆さを見る」ーメルロ・ポンティ

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by saisei-kaji | 2015-01-31 02:23 | 私感


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